1920年(大正9)第15代光徳寺住職を継承した佐伯祐正は、翌年自坊にセツルメント(隣保事業)「光徳寺善隣館」を開所、夜間裁縫塾、日曜学校、図書室、女子寮等様々な活動も、拡大途上に先の戦火に焼かれ志半ばで佐伯祐正は亡くなりました。
焼け野原となったこの中津の地で、佐伯祐正の目指した福祉の心は、お寺の再建と比例して大きくなり当時多くの母子家庭への支援の一つとして保育事業から隣保事業が再興しました。
その後地元の皆様の暖かいご理解ご協力を賜り、障がいのある方々の支援を行うため光徳寺善隣館がスタートしました。
そんな歴史の中から、子供たちがそれぞれの生活の中で様々な経験を重ね、自立に向けて光徳寺善隣館でともに集い、笑顔が溢れること・・・。私たちの役割は地域の中で障がいをもつ人たちの生活に寄り添い、支援していくことだと考えます。
◆アクセス・所在
詳細につきましては、独立行政法人福祉医療機構(https://www.wam.go.jp/content/wamnet/pcpub/top/)が運営する「WAM NET 堺福祉法人の財務諸表等電子開示システム」の「社会福祉法人光徳寺善隣館掲載ページ」でご確認ください
旧制北野中学(現・大阪府立北野高等学校)を卒業後、1918年(大正7年)東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。
結婚後は家族と共にパリに渡り、短い生涯のなか独特のタッチで多くの作品を残しました。
長男であった佐伯祐正は、男4人女3人の兄弟で、次男は祐三。
30歳パリで亡くなった祐三の墓所は、ここ光徳寺にあります。
光徳寺善隣館の歴史と佐伯祐正の業績を正しく評価し後世に伝えたいとの思いで、本書発行の運びとなりました。
第1部は、祐正の誕生以前、幼少期、青春期、壮年期、そして死去まで。
つまり1870年代(明治初め)から1945(昭和20)年の第2次世界大戦終戦までの事柄を年代順に中津町史を基に記述しました。
第2部は、主人公の祐正の業績と評価を社会福祉史系の先生方の執筆で占めました。
第3部は、弟・祐三の業績と評価を美術関係者の論文でまとめました。